【大川千枝さん・66歳】「美容の力」で日本中の女性を元気にしたい
理想の「美」を誰かに託し続けてきた
取材・文:花塚水結
60年生きた女性にはいろいろな人生がある。そして、女性一人ひとりはそれぞれ自分の人生を背負い、生きている。若くして家庭を持った人、働きながら子どもを育てた人、社会で戦い抜いた人——。そんな女性たちが経験した、人生の「酸い」や「甘い」を紹介する連載企画「60年、酸いも甘いも讃えたい」。
第11回目は、東京都にお住いの大川千枝さん(66歳)にインタビュー。美容業界一筋での活動について伺った。
66歳となった今もなお、ヘアメイクアーティストとして活躍する大川千枝さん。ブライダルや社交ダンスの発表会など、人生の晴れ舞台を彩る仕事を続けているのは、自身のコンプレックスが根底をなしていた。
「私、先天性股関節脱臼だったんです。小さいころは石膏ギプスで股関節を固定して整復(骨を正常な位置に戻す処置)をしながら、父がつくってくれた手押し車に乗って生活をしていました」
「『足の悪い子』でしたから、まわりの大人たちは優しかったです。それでも、歩けないことがつらくて……。当時を振り返ると泣きそうになるくらい」
大川さんは先天性股関節脱臼で、同年代の子どもたちと同じように走り回ることはおろか、歩くことさえ困難だった。たった数メートルの距離も、人の何倍もの時間をかけて移動していた。しかし、つらい病気とは裏腹に性格はとびきり明るかった。
「両親は、私の足と早生まれなことを懸念して『小学校への入学を1年遅らせてもいいんじゃないか』と話していたみたいなんです。でも私は隣の友だちの家へ遊びに行くこともできず、テレビだけが友だちでしたから、『小学校』がとても華やかな場所に見えていて、とにかく『小学校へ行きたい!』と訴えたようで。丁度、小学校のすぐ目の前におばの家があったので、そこへ引き取られました」
やがて石膏ギプスは取れ、成長とともに筋肉が発達することで痛みは和らいでいったが、実家とも往復しながらおばの家で暮らし、毎日小学校へ通ったという。そこでの生活が、大川さんのルーツとなったのは言うまでもない。
「おばの家は、いわゆる『パーマ屋さん』だったんです。居間と店がアコーディオンカーテンで間仕切りされていて、鏡が2つある小さな店でした。近所の人がたくさん来てくれて、毎日忙しくしていたのを覚えています。おばはお客さまに『小さい姪っ子がいるよー』と紹介してくれて、私も『こんにちはー!』なんてあいさつをして。そしたらお客さまが飴をくれて(笑)」
「だから、よくおばの仕事する姿を見ていました。サービス精神が豊富な人で、お昼に出前で取った自分のラーメンをお客さまに出したり、パーマ液を塗って待っている間はお茶とお菓子を出して談笑したり。そしたら今度はお客さまが畑で育てた野菜を持ってきてくれる。そんな人の温かさが溢れる環境で育ちました」
大川さんが生まれたのは、茨城県潮来市。田園風景が広がり、菖蒲がきれいに咲く、緑豊かな町だ。
「おばの店には雑誌『婦人画報』(婦人画報社/現ハースト婦人画報社)や『家庭画報』(世界文化社/現世界文化ホールディングス)が置いてあって、その世界観に心惹かれていました。地元は畑と田んぼしかないような田舎でしたから、自分の暮らしにはないものがそこに広がっていたんです。きれいな器や、きれいに盛り付けられた料理……。雑誌を読んでは『東京にはこんな世界があるんだ! 東京ってすごいな~』と、いつしか憧れを抱くようになっていましたね」
小学校卒業後もおばの家で生活を続け、気づけば高校生に。進路を考える時期になっていた。
「高校2年生のころ、先生と友だちと一緒に東京へ行き、銀座・三越のマクドナルドではじめてフィレオフィッシュ®を食べたんです。とろけるチーズに感動したのを今でも鮮明に覚えています。チーズなんてスーパーに売っている6Pチーズしか知らなかったので、『やっぱり東京は違うな』と(笑)」
「はじめて東京へ行ってみて『ここで暮らしたい』という思いが強くなり、東京の美容学校に通って美容師になることを決心しました。小さいころからおばの仕事する姿を見てきたおかげで、潜在的に思っていたことが急に表れたようでした。それに、美容師だったら両親も納得してくれるだろうとも思っていたんです。身内に美容師がいて、それを小さいころから見てきた私が憧れるのは自然なことですからね」
幼いころから行動範囲が制限されていた少女の、「東京へ行った」という体験が人生の選択を決めるきっかけとなったのだ。
「おばの店にあった雑誌『婦人画報』や『家庭画報』で見てきた華やかで芸術的なメイクを学びたくて、東京マックス美容学校に入学することになりました。おばにも伝えたら、『あなたが東京へ行ったらきっと遊ぶだろうから、美容室でアルバイトをしなさい』と(笑)。学校に相談したら西銀座にある美容室を紹介してくれたので、そこで働きながら学校へ通う生活がスタートしたんです」
「銀座の一等地にある美容室でしたから、おしゃれな人や著名人も来店していました。スタッフは総勢60人、お客さまは毎日200人、土日は270人くらい来店します。美容学校の卒業後も、そのままその美容室へ就職しました」
「ありがたいことに、2時間以上も待って私を指名してくれるお客さまもいて。そうしたお客さまに『ネイルもお願いします』と頼まれることも。美容師とはいえ、ネイルまでうまく塗る自信がなかったため、一生懸命ネイルの勉強もしたんです。だから、美容師以外にもネイルやエステ、着付けなど、美容に関わる多くの技術を習得していきました」
「それから私は、お客さまに対してたまに『自分のドライヤーとブラシを持ってきて』と伝えていました。美容室ではスタッフが仕上げを担当しますが、家に帰ってセットするのは自分ですから。日常でも美容室帰りと同じようにきれいにセットしてもらいたいじゃないですか」
どこまでもお客さまに寄り添う──これが大川さんのモットーなのだ。ところが、美容室に10年間勤めた28歳のころ、仕事を辞めたという。
「結婚を機に専業主婦になりました。小学校から高校生までおばの家で育った経験から、どこかで『家族の温もり』を求めていたのだと思いますが、この選択はとても心苦しかったです。自分の力で稼いで、指名してくれるお客さまもいて、すべてが満たされていたように感じていましたから。なかなか辞められない……と思っていたころ、妊娠が発覚しました。それで、仲間にハサミをすべてあげて、踏ん切りをつけたのです」
「しばらくは専業主婦でしたね。育児と家事に追われる生活を続けていました。それでも美容師時代のクセが抜けず、子どもが幼稚園生のときは、同じマンションの子どもたち全員のカットを無料で担当していました。今思い返すと、おばのサービス精神が備わっていたのかもしれないです。そうしているうちに何だか『やり残しているな』と感じるようになりました」
そして専業主婦になってから5年の月日が流れたあるとき、大川さんのもとにワタベウェディングから仕事の連絡が舞い込んだ。ワタベウェディングといえば、1970年代、日本ではまだ普及していなかった「海外挙式」を掲げ、いち早く海外進出したブライダル会社だ。10年間の美容師としての経験を活かし、広報やセミナーなどの仕事をはじめた。
「願ってもないチャンスでした。美容師として働くなかで、いつかアーティストとして雑誌の表紙やCMなどの仕事をしてみたいなと思っていましたから。ですが、子どももまだ小さかったので、月に1、2件だけ仕事を受けるようなかたちでスタートしました。そうなると、都合よくいろんな仕事をもらうことはできませんでしたね」
「そんななか、ワタベウェディングが企画した都内初のレストランウェディングでヘアメイクを担当することになったんです。結婚式という人生の門出に立ち合い、とても感動しました。親元を離れ、新郎新婦の2人で新しい家族を築いていく──この瞬間に、私が求めていた『家族の温もり』を感じました」
「『これが私の求めていた仕事だ!』と思ったんです。私が今でも特別な感情を持つ『家族』の門出を彩る仕事こそ、自分に合っているなと思いました」
そこから大川さんはブライダルヘアメイクの仕事を続け、子どもが中学生となり、手を離れはじめた2000年に独立。2003年に法人化した。そして、再び股関節に違和感を覚えたのはこのころだという。
「40代で独立し、これからより一層仕事に力を入れていこうと思っていた矢先、また股関節の痛みが出始めました。年齢とともに筋肉量が減少したことが原因だと思います。24時間常につままれているような、鈍痛が続きました。病院で診てもらったところ、手術をして人工股関節にすれば痛みはなくなるといわれ、とても悩みました」
「しかし、独立は夫と子どもが背中を押してくれたことなんです。だから、全力でがんばれるようにと、手術を決心しました。おかげで、今も痛みはまったくなく、信号が点滅していたらサッと走れるほどに。手術を決心して本当によかったなと感じています」
ここから大川さんはますます仕事に力を入れることになる。
「ブライダルヘアメイクの仕事に加え、社交ダンスのヘアメイクを受けることになりました。とある食事会で社交ダンスの先生に出会い、『メイクをしてもらえませんか』と声をかけてもらえたんです。華やかで芸術的なメイクに憧れを持っていた私ですから、俄然やる気が出ました。これまでの経験から、写真を見ればどのようにメイクすればいいか何となく理解できましたし、二つ返事で『よろこんで』と。しかし、まったくうまくいかなかったんです」
社交ダンスには、大きく分けて「スタンダード」と「ラテン」の2種類がある。スタンダードは、上品で優雅な動きが特徴だ。衣装は男性は燕尾服、女性はロングドレスが多い。一方のラテンは、情熱的でスピーディーな動きが特徴。衣装は男女ともに露出が多く、セクシーな印象だ。となれば、当然メイクの見せ方も変わってくる。
「本当に何も理解していないまま引き受けてしまいました。はじめて社交ダンスのメイクを引き受けた大会では、担当したダンサーさんのヘアセットが崩れてしまうという大失敗をしてしまいました。メイク道具やヘアセットの道具も、競技専用のものがあると知ったんです」
「担当させてもらった方にはとにかく謝って、そこからは研究の日々。『どうやったら気持ちよく踊ってもらえるのか』を考えることが私の役割だと感じ、その日の体調などお客さまの背景までもを想像するようにしたんです。それからは徐々に案件数やリピーターのお客さまが増えていきました」
ブライダルメイクや社交ダンスのヘアメイク以外にも、大川さんは新たなる挑戦を始めようとしている。
「これからは私たち50代以上の女性を『美容の力』によって、もっと元気にしたいんです。だから、『クイーンズビューティー倶楽部』というコミュニティを立ち上げました。これまでの経験を活かして、年齢に合わせた美容の知識をどんどん広げていきたいと思っています」
「コロナ禍の影響で2年前から試験的にZoomでも行っています。はじめは『パソコンはわからない……』と思っていましたが、今では設定も行えるように。年齢を重ねると、コミュニティがどんどん狭くなりますから、私は高齢者ほどインターネットを使ったほうがいいんじゃないか、と思います」
笑顔の大川さんは続けてこう話す。
「私、身長が145cmしかないんです。洋服を買いに行っても袖や裾が長いことなんて当たり前ですから、その度にお直しをしてもらっています。自分は『かっこよく』『きれいに』着こなせなくて、制限があることがどこかでずっと引っ掛かっていたことに最近ようやく気づきました。『自分ももっとかっこよく、素敵に決めたいのに!』という思いをお客さまに託して、より美しさを引き出す仕事にこだわっているんだなと」
「自分も経験したことなのでわかるのですが、50~60代って、子育てが終わり、やっと自分に時間を掛けられる年齢なんですよ。でも、それも歩けなくなってしまったら終わり。歩けないつらさを、私はよく知っています。だから、今を無駄にしないで『きれいに』『美しく』あってほしいんです」
美容業界に長年携わってきた大川さんだからこそ、仕事にも特別な思い入れがある。
「だって『今日いつもと何か違うね』とか『今日の髪型いいね』とか、言われたらやっぱりうれしいじゃないですか。そうやって、美容によってみなさんに元気になってもらいたい──。その一心で、これからも自分の人生に蓋をしない活動を続けたいです」
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