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愛ってなんだ?——「愛」と「欲望」のハナシ

精神医学から解き明かす愛の本質

特集 冬に感じたい、甘い日々 2021.2.15

取材・文:出口夢々

文学や音楽、美術など、さまざまな分野で語られることの多い「愛」。愛情を抱く人や物によってそのかたちは変わるため、「愛とは何か」を一様に語ることはむずかしいかもしれません。でも、何かを愛することも、愛を語ることもむずかしいからこそ、「愛とは何か」が気になる……!  そう思った編集部は、人が愛を感じる/抱くときの心理状態や、愛を抱く対象との関係性について解き明かすことで、「愛とは何か」——愛の本質に迫りました。お話は精神科医の泉谷閑示先生に伺いました。

 

欲望と勘違いされがちな「愛」

 

出口:音楽や文学などでは、「愛」はものすごく崇高で尊いものとして表現されていることが多いと思います。でも、実際に何かを愛すという行為はすごくむずかしい印象があって。そもそも「愛」という感情は、精神医学的にどのように定義されているのでしょうか?

泉谷:精神医学的には、特に「愛とは何か」が定義されているわけではありません。ですが、これがきちんと定義されていないと、心の問題を正しく掘り下げて扱うことができません。そこで私は、「愛とは、相手が相手らしく幸せになることを喜ぶ気持ちである」と定義しています。

出口:相手が相手らしく幸せになる。

泉谷:そうです、そこが肝心です。人間はともすれば、相手に何かを期待することを、相手を「愛している」からこそのことだと思い込みがちです。

たとえば、親が子どもに「勉強を頑張っていい大学に入ってほしい」「いい会社に入ってほしい」と求めることがよくありますね。世間ではこれを親の「愛」だと言うかもしれませんが、実のところこれは、「愛」という仮面を被った「欲望」であることが少なくないのです。「あなたのためを思って言っているんだ」という理屈でもって親はそれが「愛」だと思っているのですが、それはあくまで「こんな人生を送ることがいいことだ」という親自身の個人的な価値観が押しつけられたに過ぎない。つまり、そこには親の「欲望」が入ってしまっているわけです。

出口:相手のため、と言いながら、自分の欲望を押しつけているのですね。

泉谷:はい。実際、そのように言葉をかけている親は、それを自分の愛情から発せられる言葉だと思っている人が多いのではないでしょうか。相手が自分の思い通りになることを強要すること——つまり、欲望を愛と混同していることに気がついていないんです

確かに、今の日本では偏差値の高い大学に入れば、一流企業に就職できる可能性も高くなるでしょう。子どもの将来の安泰を願って親がそう考えてしまうのも、無理もないことかもしれません。しかし、やはり子どもはあくまで親とは別個の存在なのであって、子ども自身にとってどう生きることが本当に幸せなのか、それは本人にしかわからないことです。

「子ども」という存在は、いくら我が子であっても、決して親の分身ではなく、親とは違う性質や価値観を持った「他者」です。ですから、子どもにとって何が幸せなのかということを、たとえ親だとしても勝手に決めつけることはできないのです。あくまで「その子がその子らしく幸せであることがうれしい」と思える気持ちこそが、真の親の「愛」なのです

出口:愛と欲望、それぞれの定義を言葉にして提示されると違いが明確ですね。でも、実際に行動するときにはこれらの感情が入り乱れてしまいそうです。

泉谷自分の欲望を混入させずに純粋に相手を愛するためには、逆説的に聞こえるかも知れませんが、まずは自分自身の欲望をごまかさずに自覚していることが大切です。この原理を説明するときに、私はよく「5本のバナナの話」をします。

出口さんは今、バナナを5本持っています。出口さんがとてもバナナ好きな人で、目一杯3本までは食べられるということにしましょう。そして、とても暑い場所を旅行中なので、残ったバナナは持っていてもすぐ腐ってしまうような状況です。さて、そこにお腹を空かせた物乞いする人が現れました。
さて、出口さんはその物乞いする人にバナナをあげますか? あげるとしたら、何本あげますか?

出口:うーーん。自分では3本しか食べられないのなら、2本あげます!

泉谷:なるほど。ここで着目すべきなのは、本数ではなく、自分がどんな気持ちで物乞いする人にバナナをあげたのかということです。出口さんは自分の食べたい分を食べ切っても食べきれない2本をあげることにした。つまり、その2本はどのみち持っていても腐って捨てることになるのだから、人にあげてもいいやと思えたのですね?

出口:そうです。自分が我慢してまであげよう、とは思えなかったですね。

泉谷:そこが大切なポイントです。
もし自分が我慢をして3本以上をあげたとすると、そこには「感謝されたい」といった見返りを期待する心理がどうしても発生してしまいます。このように、自分の欲望に嘘をついて人に何かを施すと、それが見かけ上は善い行いだったとしても、その内実は偽善ということになってしまいます。つまり、「本当は3本食べたい」という自分の欲望が、「善い人だと思われたい」「感謝されたい」という別の欲望にすり替わっただけであって、「愛」ある行動に見える施しの正体は、偽装された「欲望」なのです

自身の欲望と正直に向き合うことが、「愛」に近づく第一歩であると語る泉谷先生

出口:自分を満たせずにして、愛のある行動はできないのですね。

泉谷:そうですね。たとえば、自分がやせ我慢をして男性にバナナを丸々5本あげたのに、それを全部「こんなもの食えない」と目の前で捨てられてしまったら、どう思いますか?

出口:正直、怒りがおさまりません。

泉谷:そうでしょう。その場合は、自分が我慢していたからこそ、怒りがわいてくるのです。でも、先ほど出口さんが言われたように、3本は自分で食べてしまって、あくまで残った2本をあげたのだとしましょう。さて、その2本が同じように捨てられたらどうでしょう?

出口:少し悲しいけど、5本捨てられたときのような怒りはわかないですね。私は3本、限度まで食べられたわけですし。

泉谷:そうですよね。このように、あらかじめ自分の欲望が正直に満たされていたら、そこには「感謝されなかった」といった怒りは生じないわけです。ですから、誰かを愛したい、愛そうと思ったときには、まずは自分のなかにある欲望に正直に向き合い、それを他者を利用せずに満たしておくことが必要なのです。つまり、自分の欲望に率直であることによって、むしろ中途半端に欲望を混入させたりせず他者を愛せるようになるのです。

 

「恋愛」は極めて特殊な事象

 

泉谷:ここまでは、愛と欲望をすり替えたり混入させたりしてはならないという話をしてきました。しかし、皆さんが一番関心がある恋愛というものは、愛と欲望のどちらも入っている、かなり特殊なものだと言えるでしょう

出口:愛イコール恋愛ではないのですね。

泉谷:そうです。恋愛とは、「愛」と「欲望」、そして「欲求」の3つが同時に関与して生じる感情だと私は考えています。この図を見てください。

泉谷閑示『「普通がいい」という病』講談社現代新書、2006年

泉谷:これは、私が考える人間のしくみです。この図でいう「頭」とは、理性の場のこと。先ほど、「欲望」とは相手が自分の思い通りになるよう強要することだと定義しましたが、これは「頭」から生じるものなんです。というのも、「頭」はコンピューターのような働きをするところで、損得勘定をしたり、とにかくなんでも思い通りにコントロールしたがる傾向があるんです。

出口:コントロールの範囲は自分だけでなく、他者にもおよぶのですね。

泉谷:そうなんです。ところが一方の「心」というものは、素朴な感情の場であって、小賢しい計算などはしません。そして、「身体」と一心同体につながっているので、感覚を受け取る場でもあります。喜怒哀楽や好き/嫌いなどといった基本的な感情は、ここから生じるのです。そして、今回のテーマである「愛」というものは、この「心」から生まれるものなんです。また、その「心」とつながっている「身体」のほうは、言うまでもなくさまざまな「欲求」を出してくる場所でもあります。

出口:すると恋愛は、「頭」「心」「身体」から生まれる感情である「欲望」「愛」「欲求」のすべてが混じり合って、はじめて芽生える感情なのですね!

泉谷:そうです。普通、恋愛をしていると「相手も私のことを私と同じくらい好きでいてほしい」「相手が自分だけのものであって欲しい」「相手と一体になりたい」など、他者に対して欲望や欲求を覚えますよね。本来、欲望や欲求といったものは、自分に向けられたらとても迷惑に感じるものであって、ストーカーにでも追いかけられているような、とても嫌なものなのです。でも、これがとっても好きな人から自分に向けられたのだとしたら、決して嫌な気持ちはしないでしょう。

出口:確かに、誰も彼もからそう思われると嫌ですが、自分が恋愛感情を抱いている相手にそう思われるのは、むしろうれしい気もします。

泉谷:そうですよね。ですから、恋愛というものは、とても稀なる感情の相互一致なんです。互いに相手からの「欲望」や「欲求」を嫌だと思わずに、むしろ喜び合えるという不思議な現象。これは、恋愛以外では決してあり得ない、とても奇跡的なことなのです。

 

「美」を見たところに、「愛」は芽生える

 

出口:「愛」は「心」から芽生える感情だと説明されましたが、人はどんなときに愛情を抱くのでしょうか?

泉谷原理的には、人が対象に対して何らかの「美」を見出したときに、「愛」は生まれるのだと言えるでしょう
「心」から生じる「愛」の感情は、本来、瞬時に発生する性質のものなので、情報を仕入れてからようやく生じるようなものではありません。対象の「美」と出会った瞬間、人は直観的に「愛」を感じるのです。ですから、たとえば相手の経歴や収入、肩書を知ってから魅力を感じたりするのは、「愛」ではなく打算的な「欲望」のほうなのです。

出口:愛は、直観的に生まれる感情なんですね。では、「愛が冷める」という現象は、最初の直観が間違っていたということなのでしょうか?

泉谷:いえ、「心」由来の直観自体は、判断を誤ることはありません
しかし、自分では直観だと思っていたものが、実は偽物だったということはよくあることです。つまり、自分の「頭」由来の欲望や期待が混入して、知らず知らずのうちに「心」の直観を曇らせてしまい、正しい見方ができなくなることがあるのです。自分の勝手な期待によって相手に投影した幻想が、相手を美化して見てしまうことになる。しかし、それがのちになって幻想に過ぎなかったとわかったとき、一気に「愛」が冷めてしまうわけです。

しかし、それとは別に、相手のなかに当初は確かにあったはずの「美」が、時と共に曇ってしまったり失われてしまった場合にも、「愛が冷める」という現象は起こり得るでしょう。
たとえば、たまたま若さゆえに存在していた一過性の「美」にだけ魅力を感じていたような場合ですと、相手からその若さが失われてしまえば、残念ながら、気持ちが冷めてしまうこともあるかもしれません。しかし、その人の魂や生き方からにじみ出るような「美」に惹かれたものならば、それはきっと年月を超えて、「愛」の対象となり続けることだろうと思います

出口:ここまでお話を伺って、欲望と愛を混同しないように気をつけないといけないな、と思いましたが、それはとてもむずかしいことのようにも思えます。

泉谷:そうですね。原理的に、自分に率直に向き合わないと愛は生まれにくいので、まずは自分の欲望に正直に向き合うこと、そして自分自身を愛することがとても大切です。この2つができてから、真に誰かを愛せるような自分になるのです。

人を大切にするためには、まずは自分自身を大切にすることから始めなければなりません。自分自身に対して「こういう自分でなければ認めない」といった条件を課して「欲望」を向けてしまうのでなく、ただひたすら、自分を唯一のかけがいのないものとして「愛する」こと。それが真に自分自身を大切にすることであり、すべての「愛」の出発点なのです。

 

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泉谷閑示

精神科医、作曲家、演出家。東北大学医学部卒業。精神療法専門の泉谷クリニック(東京/ 広尾)院長。企業や一般向けの講演、国内外のTV出演など精力的に活動中。著書に「『普通』がいいという病」「反教育論~猿の思考から超猿の思考へ~」(講談社現代新書)、『あなたの人生が変わる対話術』(講談社+α文庫)、『仕事なんか生きがいにするな〜生きる意味を再び考える〜』(幻冬舎新書)、「『私』を生きるための言葉-日本語と個人主義ー」(研究社)、「『心=身体』の声を聴く」(青灯社)、「本物の思考力を磨くための音楽学」(yamaha music media)など多数。CD「忘れられし歌 Ariettes Oubliées」(KING RECORDS)が好評発売中。詳細は泉谷セミナー事務局まで。
泉谷閑示

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