人生を豊かに彩るWEBマガジン

偉人たちはどうやって死んだ?

樋口一葉、正岡子規……偉人の死からわかる医療の進歩

特集 今こそ、死の話をしよう 2021.1.04

取材・文:花塚水結

歴史上の人物がどのようにして亡くなったかご存知でしょうか? 教科書に載っている出来事は偉人たちが生きていときの功績ですから、偉人たちの死因には馴染みがないかもしれません。現代のような発達した医療もない時代を生きた人たちは、今では死にいたるとは考えられないような病気で亡くなっている人たちも大勢います。
今日は医学博士で『偉人たちの死亡診断書』の著者である中原英臣さんに、偉人たちの死因と現代医療について伺いました。

 

結核によって亡くなった若き日本の文化人たち

——結核は今でこそ治る病気ですが、日本の文化人には、結核で亡くなっている方もいるのですね。

そうですね。樋口一葉、滝廉太郎は肺結核で亡くなっています。
樋口一葉は、1872年に東京都で生まれます。1889年、一葉が17歳のとき、一家の大黒柱である父親を亡くし、小説家になることを決意しました。最初は評価が得られない一葉でしたが、明治期の文芸雑誌である『文学界』の同人たちと交流をはじめ、一葉も刺激を受けます。その後、『たけくらべ』『にごりえ』『十三夜』などを名作を次々と発表し、小説家として評判を高めていきました。
そんな矢先、一葉は体調を崩し始め、結核と診断されます。そして診断をされてからわずか3カ月後に亡くなってしまうのです。1896年11月、一葉が24歳のときでした。

滝廉太郎は、1879年に東京で生まれます。1894年、東京音楽学校(現東京藝術大学)に入学し、ピアノを学びます。『四季』『鳩ぽっぽ』『雪やこんこん』など、日本人なら誰もが知っているような名曲を次々に作曲しました。
1901年にはドイツに留学し、ライプツィヒ音楽院で作曲を学びますが、わずか1年後に帰国します。原因は結核を患ったことです。そして、帰国して1年後に亡くなってしまいます

1900年ころから1950年くらいまでは、日本人の死亡数のトップ3には結核が入っていて、当時、結核は不治の病とされていました。

10年ごとの日本人の死亡数ランキング(1900年~1950年)

出所:厚生労働省統計情報部『人口動態統計』より編集部作成

樋口一葉は24歳、滝廉太郎は23歳といずれも若くして亡くなっています。もし現代の医療があって病気が治っていれば、素晴らしい才能を生かして歴史に残る作品をもっと生み出していたのだろうと思うと悔やまれますが、反対に結核にかかったことで注目された偉人もいます。

——その偉人とは誰でしょうか?

正岡子規ですね。子規の直接的な死因は脊椎カリエスという病気ですが、正式には「結核性脊椎炎」と呼ばれるもので、その名のとおり、結核菌が脊椎を侵食し発症する病気です。子規は元々結核を患っていて、それが悪化して脊椎カリエスになりました

子規は、1867年現在の愛知県である伊予の松山で生まれました。本名は常規(つねのり)、またの名を升(のぼる)と言いました。
政治家を志した子規は、17歳で中学校を中退し、上京します。上京後、大学予備門に入学し、そこで夏目漱石と出会います。このころから短歌や俳句をつくっていました。1889年、子規が22歳のころはじめて喀血し、翌日に医者から結核という診断を受けます。子規が自分の号を「子規」としたのはこの直後だそうです。「子規」とは「ホトトギス」のことで、「血に啼く」と言われていたホトトギスを喀血した自分に見立ててつけました。

その後、結核が理由となり政治家への道を諦め、帝国大学文科大学(現東京大学)の国文科に進学します。しかし、政治家を目指していた子規にとって、国文科に進学することは、人生の大きな挫折だったのです。
1892年、新聞「日本」に『獺祭書屋俳話』を連載するようになり、大学を中退。そのまま日本新聞社(1914年に廃刊)に入社します。1895年には自らの志願により、日清戦争に新聞記者として従軍しますが、その約1カ月後には船で大量の喀血をします。神戸の病院に入院した後、療養のために松山まで戻り、夏目漱石と同じ下宿で暮らし始めます。少し回復した後、松山から須磨を経て奈良まで行った子規は、「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」という名句を残します。

1896年、東京に戻り「脊椎カリエス」の診断を受けた後、歩行が困難になり、ほとんどの時間を病床で過ごしました。そんな子規ですが、体調とは反対に、ものすごい勢いで活動をし、雑誌「ホトトギス」では俳句に自然を描く写実主義を提唱。俳句界の革新をもたらします。そして、1902年に「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」という句を残してこの世を去りました

——結核を患った後も素晴らしい活動をされていたのですね。

はい。自らの病状を記した『病牀六尺』や辞世の句はとても有名ですが、病気にならなかったら生まれていませんし、もし病気にならなかったら子規の存在もそれほど大きく注目を浴びなかったかもしれません。最後まで創作活動していた子規は、幸せだったのではないかと思うんです。だから、一概に病気を患うことが残念だとは言い切れません。

 

煙草が好きで肺がんで亡くなったマルクス

——がんで亡くなっている偉人もいるんですね。

そうですね。ドイツの哲学者・マルクスは肺がんで亡くなっているのですが、亡くなる少し前から胸や背中の痛みに苦しんでいたのだと思います。そして、直接の死因は、がんによって気管がつまったことによる呼吸困難だろうと思っています。

肺がんは、がんの部位別死亡数を見ると日本人の死因でトップです。特に男性は肺がんが1位、女性は大腸がんに次いで2位で、2019年の男性の死亡数は5万3338人、女性は2万2056人でした。男性の死亡数が女性より半数以上も多いのは、男性のほうが喫煙率が高いからだと言えるでしょう。

がんの種別死亡数(1995~2019年/人)

出所:厚生労働省統計情報部『人口動態統計』より編集部作成

——やはり、喫煙による影響は大いにあるのですね。

そうですね。マルクスも、住んでいた家に入ると煙草の煙で涙が出ると言われるほど、しっかり煙草を吸っていましたから。

がんは死因のトップですし、がんになるのが怖いと思う方もいらっしゃるのですが、そんなに怖がらなくても大丈夫だと思います。僕も10年前に中咽頭がんを患っているんです。その後、肺に転移したときは「死ぬんだな」と思いました。でも当時の医者に助けてもらって今がある。現代において、がんという病気は助かる病気なんです

がんが治る病気になった理由の1つに、CT検査があります。CT検査によって再発や転移したがんの早期発見・早期治療ができるようになり、完治するケースが増えました。一部の感染症によるがんを除けば、がんの予防法はありません。ですが、しっかり病院にかかって、医者の言うことを聞いていれば治るケースが多いです。死因の推移を見てもわかるように、1900年代前半の死因のトップは肺炎や気管支炎でした。ですが、抗生物質の登場により、肺炎や気管支炎で亡くなる人が減少しています。

肺炎および気管支炎、全結核、がんによる10万人あたりの死亡率(1900年~2000年/%)

出所:厚生労働省統計情報部『人口動態統計』より編集部作成

悲しいですが、人間はいずれ死にます。ただ、多くの病気は治療によって治すことができる時代です。体調の変化を感じたらしっかり病院に行って、医者の指示にしたがって治療をしてほしいと思います。

ほかに死因を知りたい偉人がいたら、ぜひコメント欄で教えてください!

コメントを投稿する

コメントを投稿する

コメントをするには、会員登録/ログインが必要です。

この記事をみんなに伝える

ボタンクリックでシェア

ZIELのSNSをフォローしよう

  • twitter
  • facebook
  • line
この特集の記事一覧へ

この記事に協力してくれた人special thanks

中原英臣

1945年、東京都生まれ。東京慈恵会医科大卒、医学博士。ニューヨーク科学アカデミー会員。ワシントン大研究員、山梨医科大助教授、山野美容芸術短大教授を経て、新渡戸文化短大学長。共著に『偉人たちの死亡診断書』『新・進化論が変わる』『愚問の骨頂』(いずれも共著)など多数。
中原英臣

まだデータがありません。