あなたの「自分らしさ」は、周りのみんなで考える
自分らしく生きる/死ぬために、考え続けるべきことはなにか(2)
構成:出口夢々
プロフィール写真:きょーいち
本文写真:編集部
自分らしく生きて、人生をまっとうするには「自分とはどういう人間か」「自分がどうあり続けるか」などと、考え続ける必要があると考えた編集部。そこで、哲学対話をとおして「共に考える場」をつくる活動を行っている、東京大学の教授・梶谷真司先生と、ZIEL編集部・花塚、出口の3人で、「自分らしく生きる/死ぬために、考え続けるべきことは何か」を考えてきました。
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人物紹介
梶谷真司
東京大学大学院総合文化研究科教授。専門は哲学・医療史・比較文化。近年は哲学対話を通して、学校教育、地域コミュニティなどで、「共に考える場」をつくる活動を行っている。花塚水結
自分らしさとは「これだけは譲れない、大切な何か」があることなのではないかと考えている。今の自分にとって譲れないことは、毎日のYouTube鑑賞。出口夢々
ZIEL編集部。自分の自分らしさがよくわからず思案している。
自分らしさは選択の余地の有無と関係する
出口:ここまで「自分らしく」生きるためには、自分だけでなく社会全体で考えていくべきだと話してきました。ですが、そもそも「自分らしく」とは何なのでしょう?
梶谷:「自分らしく」というのは、個性の有無やどのような個性があるかという話ではなくて、自分の希望によって行動の選択ができる余地があるということだと思います。
たとえば、学校で課題を出されたときに「やりたくありません」と言ったら「そうか」と、その希望を認めてもらえる余地があるか否かということです。全部人に言われるがままに行動したり、人からやれと言われたことを飲み込んでやるというのは、どう考えても「自分らしい」生き方ではないですよね。
これは別に、わがままに、自分勝手に生きるわけではないんですよ。「100%自分のやりたいことをやらせてくれ」というのは無理ですよね。でも、言われたことに対してやりたくないと思うのであれば、話をして折り合いをつけるべきだと思うんです。
お2人は学生時代、やりたくない課題を出されたときにはどうしていましたか? きちんと真面目にやっていたのですか?
出口:はい(笑)
梶谷:そう(笑)。花塚さんは?
花塚:課題はあんまりやりませんでしたね(笑)
梶谷:やらないという選択肢はありますよね。それで先生に怒られて成績を落とされて、その事実を受け入れる――これは1つの方法です。あともう1つの方法は、人のものを写す。
花塚:やっていました(笑)。授業中に一生懸命写して……(笑)
梶谷:友だちがやってきた宿題を写して、提出する。これだとテストの点数は取れないだろうけど、提出物だけ出して平常点は稼ぐ方法ですよね。そして、真面目な人は提出物を自分できちんとやって、テストもがんばる。そうでしたか?
出口:はい。
梶谷:出口さんの方法は完全に相手の要求に応じているわけですよね。
だから、やりたくない課題を出されたときの対応策としては①イヤイヤ応じてやる、②表面的に応じて裏ではサボる、③拒否する、この3つがあります。でも、この3つの違いって、「相手の要求に対してどう応じるのか」という程度の差しかないんですよ。これって不毛ではないですか?
課題を出されたときに、「自分でやりたいと思う人はやりなさい」と言われたら、「いい大学に行きたいからやる」という人がいても、「私はそんなにいい大学に行きたいわけでないからやらない」という人がいても、はたまた「僕は大学に行かないのでやりません」という人がいてもいいわけです。
でも、それが許されない。だから、みんな表面的にごまかすか、あとは反発してドロップアウトするしかなくなる。そこには個人の選択の余地がないじゃないですか。すごく限られているでしょ?
「自分にはこの課題は必要ありません」と生徒が言ったときに、「そうか。必要ないならこっちの課題だけでいいね」とか、「自分はAはやりたくないけど、Bはやりたいです」と言う生徒がいるなら「じゃあBをやりな」と個別に対応する。そういう余裕のある選択肢がもう少しあってもいいと思うんです。
そもそも、自分たちが考えて選べる余地がないと「自分らしさ」が何かもわかりませんよね。それに、与えられた課題をどのようにこなすかを考えて行動する「自分らしさ」と、そもそも課題を自分で選択して取り組む「自分らしさ」とでは、「自分らしさ」の幅が異なります。
もちろん、まったくルールがなくてもいいとは思いません。現実的にはいろいろな条件があるうえで存在する選択肢ですから。ですが、そのルールによって自分らしさが阻害される――そもそも自分らしさを考えさせてくれないというのは、ルールのあり方を問直したほうがいいのかもしれません。
可能性を絶たない介護のあり方を考える
出口:年を重ねると身体の自由が利きにくくなって、介護をしてもらう必要が出てきますよね。そうすると、相手があっての自分という存在になるから、「自分らしさ」を求めるのはむずかしいのかなとも思ってしまいます。
梶谷:介護がどの程度必要かという問題があるにしても、「介護が必要」ということと、「本人の希望を無視してもいい」ということはまったく別の問題ですよ。
以前、僕のイベントに障害のある子を連れてきたお母さんがいたんです。そのお母さんは「この子は自分がいないと何もできない」と思って、子どもから常に目を離さないようにしていたんです。でも、お母さんと子どもを別々にして、1人ずつ話をしてみると、子どもは「1人になりたい」と言っていたんです。本人としては「お母さんがいなくてもできる」と言うんですよ。たしかに、お母さんが思うほどはできないかもしれない。傷つくかもしれないけど、本人は、お母さんの庇護下にいるより、傷つくことを選びたいんです。
お母さんに守られることだけが幸せだとは限りません。障害を持っていても、親から離れたいと思っている子はたくさんいるんですよ。守ってくれてありがたいし、感謝もしているけど、そのことと庇護下に置かれることは違っています。自分が人の手を借りなきゃ生きていけない人間なら、人の手を借りて生きていけばいいんです。
花塚:ずっと守られるって、それはそれで苦しいですよね。
梶谷:自分で何かを選んで、ときには感謝をされたり、自分がいることで役に立ったという経験があって、はじめて生きていける――意味があると実感できる人生を送れると思うんですよね。ただ守られる人生は、生きる意味を奪われているようなところがある。だから、少しであってもそこに選択の余地があるべきだと思うんです。
ただ健康であればいいとか、ただ守られていればいいという話ではありません。守る人――親や介護者の立場からしたら守りたいのもわかりますが、本人がどうしたいのかが大切だと思います。本人が望むことがあるのであれば、ただ守るのではなくて、まわりがそれに協力したり、その望みを実行するための工夫を考えたりしたほうがいいんじゃないでしょうか。
「自分らしい人生」が何かわからないにしても、そっちのほうが「自分らしさ」に近い気はしますよね。やれるかどうかはわからないけど、やってみたらできるかもしれない。誰の助けも借りずに生きていける人間なんていないわけだから、そこはできることをしてあげたうえで、本人にできること、やりたいことをやらせてあげる。
梶谷:本人だって、可能性があれば「これをやりたい」と希望を持つかもしれません。でも、その可能性が最初から絶たれていたら、「今のままでいいや」としか思わない。そのような状況って、守る側にしても守られる側にしても、幸福なことには思えないんです。
高齢者でも、だんだん介護が必要になって自由が利かなくなっていっても、それでも何かできることってきっとあるんじゃないかな。そういうことを「みんな」で考えるといいのかなと思いますよね。
出口:選択の余地を残す環境づくりってむずかしいですよね。自分が介護する側になったときに、親の希望をどこまで受け入れられるのかはむずかしい問題だなと思います。
梶谷:希望を聞くことって、わがままを聞くことではないと思うんです。そこの折り合いはむずかしいかもしれないけど、本人の意思を尊重することと、本人の欲求を全部叶えることは違うんですよね。
梶谷:これは高齢者も考えてほしいことです。相手に対してわがままを言うのか、それとも相手の言うことを全部飲み込むのかという2択ではなくて、お互いがお互いの立場を尊重できるような関係を築きながら、生活するためにはどうすればよいのか。それを考えたうえで、「こういう理由でこれをしたい」と伝えてみて、「このくらいならできるけど、ここからは無理だね」という現実的な選択を家族みんなで考えたほうがいいと思うんです。
花塚:体力的にも身体能力的にもできないことはあるはずだから、そこのラインを見極めて、できそうなことはサポートしながらでもやらせてあげる、と。
梶谷:うん。自分が相手にやらせたいことが本人のためなのか、ほんとうに正しい判断なのかを考える一方で、相手が望むことは単なるわがままなのか、わがままではなくて必要なことなのかはオープンに考えないと。
だから自分らしさは自分1人だけで考えられる問題ではなくて、その人のまわりにいる人――「みんな」で考えていくべき問題なんです。
そして、当事者――高齢者は「まわりがそうだからそうしなきゃいけない」という考えに負けないようにしないといけない部分もある。まずは、「ほんとうに自分の人生、それでいいのか」「自分の希望を殺してまわりの声に従っていていいのか?」と自分自身に聞いてみてください。
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梶谷真司
東京大学大学院総合文化研究科教授。1966年生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。専門は哲学・医療史・比較文化。著書に『シュミッツ現象学の根本問題~身体と感情からの思索』(京都大学学術出版会・2002年)、『考えるとはどういうことか~0歳から100歳までの哲学入門』(幻冬舎・2018年)などがある。近年は哲学対話を通して、学校教育、地域コミュニティなどで、「共に考える場」をつくる活動を行っている。
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