編集後記
1月特集「今こそ、死の話をしよう」を終えて
文:花塚水結、出口夢々
死んだら進化の始まり——花塚水結
1月のテーマは「今こそ、死の話をしよう」。テーマを設定した当初は、「新年から『死』について考えるなんて、不吉だな……」と思っていましたが、どうやらそれは間違っていたようでした。
「寿命は何によって決まっている?」で、遺伝学の専門家である小林武彦先生にお話を伺いました。
生物の寿命は「遺伝」と「環境」によって決まっているとのこと。元々、生物の遺伝子には寿命がプログラムされているため、そのために人間やそのほかの生物の平均寿命が異なるのと説明できます。
「遺伝子」のほかに「環境」によっても寿命が左右されます。人間の寿命はここ100年ほどで30歳も寿命が延びていますが、それは私たち人間が摂取する栄養と住んでいる生活環境が各段によくなったためといえるでしょう。
しかし、環境がよくなって寿命が延びたとしても、人間が持っている遺伝子に寿命がプログラムされているのならば、必ず「死」が訪れます。
どんなに長生きしたいと願っても、115歳前後で「死」が訪れて何もかも終わってしまうんだな……と思っていましたが、生物学的に人間の死は進化の始まりなんだそうです。
だとすれば、「死」は悲しむばかりのものではないかもしれません。古代から「生」と「死」を繰り返してきて少しずつ進化してきた人間は、きっとこれからも進化を続けていくでしょう。私たちが今生きてそして死ぬことは、未来のためなんだ——そう考えれば、よろこばしいことだと思うようになりました。
「死」とは、新年にふさわしいテーマだったのかもしれません。
ペシミズムからの脱却——出口夢々
「なぜ私は生まれてきたのだろう」——そう疑問に思うようになったのは、6歳くらいのことです。顔も言動もかわいい妹に両親がかかりきりで、あまりかまってもらえなかった(と勝手に思うようになった)ので、そう考えるようになった覚えがあります。図書館でエジソンやライト兄弟の伝記を目にするたびに、「私は人生で何も成し遂げられないのではないか」と思うようになったのも、そのころです。なぜ生まれてきたのか、私には何ができるのか、どうせ最後には「死」が存在するのだから、すべてが0になってしまうのではないか……今思うとペシミズム極まりない考え方をする小学生だなと、我ながら呆れてしまいますが、今もなお「死」に過剰に囚われている気がします。
そんな(重すぎる?)思いを抱えながら臨んだのが、2021年1月の特集「今こそ、死の話をしよう」です。考えるだけで嫌になってしまう「死」ですが、悲しいことに、私にも必ず訪れます。ならば、その事象について、一度読者のみなさんと一緒に、じっくりと考えたいと思ったのです。
医師や死生学を研究している方、葬送文化を研究している方などにお話を伺い、さまざまな方向から「死」についてアプローチしましたが、取材をとおして感じたのは、「死」があるからこそ「生」をやり切ろう、という姿勢です。「最後には死があるけど、生きているんだから、その生をまっとうしよう」というような強い意思を言葉の端々から感じ、「私もこのままではいけない」と強く考えさせられました。「死に囚われすぎるのではなく、生をやり切らないと、それこそすべてが0になってしまう」と思ったのです。
1月特集「今こそ、死の話をしよう」はいかがでしたでしょうか? 私のように考えを改められた方もいれば、自分自身の死生観をより強固にできた方もいるかもしれません。コメント欄で感想を教えていただければ幸いです。
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