どうして「普通」ではないものを「差別」してしまうんだろう?
「普通」を好む日本人
取材・文:花塚水結
2020年5月、アメリカ人の黒人男性が、警官による不適切な拘束により、命を落としました。この事件をきっかけに「反人種差別デモ」が広がり、世界中で大きな問題になりました。
世界中で問題となる差別は、どうして生まれてしまうのでしょうか? この問題に迫るために、「差別とは何なのか?」を紐解いていきます。東洋大学社会学部社会心理学科教授の北村英哉先生に話を伺いました。
「差別」は古くから人間に組み込まれた「本能」
花塚:「差別」がって、世界で大きな問題になっています。日本国内でも、人種や年齢などを理由に差別があると思うんですけど……。
私は、誰にでもある「普通」という感覚が差別を生み出してしまうのではないかと思うのですが、どうでしょうか?
北村:そうだと思います。とりわけ日本では「普通」であることが求められているんですよ。こんなに「普通」であることが求められる国はありません。
日本では「普通」「無難」ではない人が目立ち、嫌われたり、差別の対象になりやすくなっています。
花塚:どうして「普通」ではないものを差別してしまうんですか?
北村:人間の本能がかかわっています。心理学は昔からの進化という視点によっても物事を論じる学問なのですが、ここではホモサピエンスが森やサバンナで生活していた10万年以上前のことを考えてみましょう。
たとえば、森のなかで、自分が所属していない別の集団と出会うとしますよね。言葉が通じず、コミュニケーションがとれませんから、恐怖心や警戒心を抱くようになります。
この、恐怖心や警戒心が人間のアラーム反応として組み込まれている——つまり、「普通ではない」=「自分たちと異なるという意味で違うもの」を差別するのは、「本能」とも言えます。
花塚:もともと人間には、わからないものに対して「怖い」という感情を抱く機能があるがゆえに、差別が起こる、と。
北村:はい。この「本能」は10万年も前から形成されてきたので、そう簡単には変化しないですし、なかなか変えられないと思います。
でも、我々はこうした本能を乗り越えて現代社会に対応してきたんですよ。
今、私たちはサバンナで生活しているわけではないので、ほかの民族と街なかで会っても、突然襲いかかってくることはないとわかっていますよね。街にはさまざまな言語を話す人もいますし、世界を飛び回って仕事したり、観光したり。そういうことがあたり前な時代だから、もはやアラーム反応を出すことが古くなっています。
花塚:本能も古くなっていくのですね……!
北村:そうですね。
そもそも私、「普通」というのも、よくわからないですよ。
僕は数年前、アメリカに行っていたんですけどね、もう街中にいろんな人たちがいて。毎日乗る通勤電車のなかに、肌も瞳も髪の色も違う人がたくさんいるわけですよ。そのなかで何が「普通」というのは、わからないですよね。
でも、久しぶりに日本に帰ってきて、「みんな髪が黒いな」と思ったんですよ。学生時代から制服が決まっていたり、染髪が禁止されていたり、スカート丈は何センチと決まっていたり、いろいろなルールがありますよね。これを守れてしまうのが日本人。アメリカやヨーロッパでこんな規則を言い出したら、暴動が起きそうな感じがします。
花塚:学校に規則があるのは、普通だと思っていました。
北村:でしょう。もっと嫌がっていいと思いますよ。
規則を嫌だと思わないから、普通を愛している人が多くなって、「みんなと同じじゃなきゃ嫌だ……」と考えてしまうんですよね。そして、みんなと同じだと「安心」する。
差別も同じです。みんなと一緒に何かを排除していれば安心だという心理が働くので、「普通」ではない何かを差別してしまうのです。
「批判」は行動を批判すること、「差別」は人を批判すること
北村:また、今の日本では「批判」という言葉の意味がうやむやになってきていて。差別と同じような意味で「批判」という言葉が使われるようになっているので、これもまた問題になってきています。花塚さんは、批判されると嫌ですか?
花塚:嫌ですね。批判されると、自分を否定されているような気がしてしまって……。
北村:僕が担当しているゼミの学生でも「批判は嫌だ」という人が増えているんですけど、「批判」と「差別」は明確に違うんですよ。
花塚:どう違うのでしょうか?
北村:批判はその人の行為や行いに対して意見を述べることです。
たとえば、ネットで国家を批判する人が見受けられますけど、それは「もっといい政策があるでしょう」と、改善を望んで意見を述べているわけです。よりよくなろうと、未来に希望をもっているわけだから、批判自体は悪いことではありません。
そういう意味では、改善を視野に入れて意見を述べるのが、正しい「批判」ということになります。
花塚:批判は現状をよりよくするための意見だから、自分を否定されているわけではないのですね。
北村:そうです。指摘されたら改善すればいいだけで、過剰に委縮する必要もありません。
ただ単に人を陥れたいだけの批判はその人に対する悪口になってしまいますから、よくないですけどね。
花塚:たしかに。では、一方で「差別」とは、どのようなものですか?
北村:差別はその人そのものについて意見を述べることです。
「黒人はアメリカにいるな!」という意見は黒人の人そのものを差別していますよね。人種のように、努力しても変更できないものや、すぐに変更することがむずかしいものを「属性」といいます。属性は人種のほかに、出身、性別、血液型などが該当しますが、これら属性について排他的な意見を述べることを差別といいます。
花塚:なるほど。こんなにも明確に分かれているのに、どうして混同してしまうんでしょうか?
北村:私は、昔からある「言葉」の問題だと思っています。
「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がありますよね。
花塚:犯した罪を憎んで、罪を犯した人は憎まないという意味の言葉ですね。
北村:そのとおりです。罪(犯罪)というのは、「行い」なんですよ。万引きした人が捕まったとしても、罰せられるのは「万引き」という行為であって、人を罰しているわけではありません。
日本人は、人と言動がどうも切り離せない傾向にあって、ここの線引きがむずかしくなってしまうんです。だから、発言が否定されると自分も否定されたように感じてしまう。
犯罪も訂正すればいいんです。万引きするくせが直ったら、もう普通の人じゃないですか。でも、日本ではその人のことを「前科者」と言うんですよね。
花塚:たしかに、言葉の影響は大きいかもしれません。
どうして、日本人が人と言動を切り離しにくい傾向にあるのでしょうか?
北村:元々、言動が人と一体化しやすい心情が日本人にはあるのです。
昔から、農作業のように協同して行う作業が多かった日本では、一緒に働く人の勤勉さやまじめさなど仕事に臨む姿勢やその人の性格が大切にされてきました。言動はその人の性格を反映しているという考え方も強く、どうしても言動を人につなげようとしてしまうのです。
「罪を犯してしまった」という過去は変えられませんから、そこに対していつまでもこだわってしまうのも、差別になるのではないでしょうか。
それから、批判と差別には、もう1つ、大きな違いがあります。
花塚:なるほど……。もう1つの違いとは、何ですか?
北村:差別は、憲法で禁止されていることなんです。
第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
花塚:……! 国の決まりになっているんですね。
北村:そうです。
ただ、差別を罰する法律が日本にはないんです。
花塚:差別は憲法で禁止されているけど、それを罰することはできないということですか?
北村:そうなんです。ヨーロッパでは差別に関する条例をつくっているところはたくさんありますし、2020年7月には神奈川県川崎市が差別禁止条例を施行しましたよね。
しかし、法律がない日本では、差別が「罪」になるという意識が低いわけです。
刑罰を与える法律はなくとも、憲法では差別をしてはならないと定められているわけですから、「差別は憲法違反」だという意識が必要です。
人間が人間を貶めてしまうのは、自己肯定感が低いから
花塚:たしかに、「差別」が罪であるという意識は低い気がします。憲法で禁止されていると知って、ハッとしました。
でも、罪である意識が低いにしても、「してはいけないこと」という意識はあると思うんです。それでも差別をしたり、人を貶めてしまう理由は何でしょうか?
北村:先ほどいった「アラーム反応」とはちょっと違う理由があるんです。
差別をしてしまう人や、人を貶めてしまう人は、自己肯定感が低いんですよね。
花塚:なぜ、自己肯定感が低いと差別してしまうのでしょうか?
北村:自己肯定感が低いと、自分以外の人を下に落としてマウンティングしようとするんです。自分の地位を上げられなかったら、ほかの人を下げれば自分が上がりますよね。そうして自分より下の人を求めて、安心しようとようとするんです。
花塚:マウンティングかぁ……。誰しも、自分をよりよく見せたいという気持ちは、少なからずありますからね。
北村:それから、自分が所属している集団は優秀だといって、別の集団は貶すこともありますね。
たとえば、わかりやすく大きな枠組みでいうと、私たちが所属している国は日本ですよね。日本が何かしらの快挙を上げるとやっぱりうれしいと思うじゃないですか。オリンピックで日本人選手が活躍するとかね。
自分たちがいいと、ほかが悪くなりますから、相対的に自分がよくなる。だから、自分が所属している集団がよくなると、そこに所属している自分も自動的に地位が上がるような気がするんです。
花塚:日本人がいう「日本はいいよね!」というのは、根底に自分もそこに所属しているから誇らしいという気持ちがあるのですね。
北村:はい。特に日本では、「私ってすごいのよ!」というと「自慢」だとかいわれるけど、「私たちって個性的で最高だよね!」というのは、許されるような、いいやすいような気がしませんか?
花塚:たしかに、主語を大きくすると自慢だとは思わないかもしれません。
北村:でしょう。集団を個性的で最高だと褒めることで、結論、自分も個性的で最高だということになるんです。そして、集団に特徴がないと、ほかの集団を差別するようになります。すべて自己肯定感の低さが原因なんですよね。
みなさんの「差別」に対するご意見を、ぜひコメントで聞かせてください。
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北村英哉
東洋大学社会学部社会心理学科教授。共著に『進化と感情から解き明かす社会心理学』(有斐閣)、『偏見や差別はなぜ起こる?』(ちとせプレス)など。
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